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京阪宇治から徒歩45分程度。最寄り駅は黄檗でJR・京阪ともにすぐの距離である。
正面近くと思われる場所に中華風の門(総門)が現れる。一般の寺と違う風景だ。中へ進むと今度は大きな門(三門)が見える。
さてさて、境内の説明も大事だが、万福寺を語る時には、まず、隠元禅師を語らずにはおれない。
隠元禅師は明の時代の1592年、中国福建省に生まれ、46歳で黄檗山萬福寺の住職となる。高名な僧となり、名声は日本にも届いていた。
長崎・興福寺の僧・逸然性融らの招きがあり。はじめは、隠元禅師の弟子である也嬾性圭(やらんしょうけい)という僧を派遣したが、船が遭難し、帰らぬ人となった。
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しかる後、次を期待し、高名な隠元禅師本人を招くこととした。最初は固辞されたが、たびたびの招請に、ついに渡日の決意を得る。
多くのの弟子とともに来日した隠元禅師は、長崎や摂津の寺に住し、3年目に、中国の弟子に約束していた事もあり、帰国を希望した。しかし、日本の人々は、日本に留まることを嘆願し、当時の幕府にも働きかけた。
1658年、隠元禅師は江戸へ赴き、将軍徳川家綱に拝謁。家綱も隠元に帰依し、翌年には幕府から宇治に土地が与えられ、隠元禅師のために新たに寺が建てられることになった。
新たな寺は故郷の寺と同じく、黄檗山萬福寺と名付けられ、時の将軍や大名の援助を得て1679年頃に完成した。
こうした経緯で、隠元禅師は日本に留まることとなり、当初3年間の滞在のはずであったが、結局日本で生涯を終える事になる。
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さて、 隠元禅師の話題が多くなりすぎたが、本文に戻る。
拝観料は必要ない。意外であった。・・うれしい。
沢山の堂宇があり、三門の向かいには天王殿、その奥に大雄宝殿、さらにその奥に法堂が一列に並んでいる。
主要なお堂には全て回廊が巡らされて、雨の日でも行き来が楽である。そして、回廊もお堂も、至る所に中華風の趣が感じられる。
「卍字くずし」の高欄、「黄檗天井」と呼ばれる天井、中華風のあんどん、円形の窓、木魚の原型だといわれている魚梛、「桃符」と呼ばれる桃の実形の飾りなど、いずれもが日本の寺院と違った情緒である。
本堂を大雄宝殿と呼び、本尊の釈迦如来、脇侍には迦葉尊者(かしょうそんじゃ)・阿難尊者(あなんそんじゃ)という釈迦十大弟子の内、二尊が祀られてる。
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天王殿正面には、中国で弥勒菩薩(みろくぼさつ)の化身だと言われている「布袋」が祀られている。諸縁吉祥、縁結びの神とされる。
その他、余談だが、隠元禅師や禅僧が日本に伝えたものとして、隠元禅師の名に由来する「インゲンマメ」・筍の木の芽あえ等として知られる「孟宗竹」・お馴染みの「スイカ」などがある。インゲン豆は知っていたが、スイカは意外であった。
「ほていまつり」 毎月8日、布袋尊(弥勒菩薩)の縁日に開催。
手作り市を中心に、法要、お茶席、音楽演奏など催している。
入山は無料。また、手作り市では業者、一般を問わず出店者を募集している。 |
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次回は大阪・天王寺、四天王寺方面へ向かう予定です。
►次回の訪問地 → 大阪・天王寺、四天王寺
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